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「生きる」

 

僕は筋ジストロフィー症という病気を抱えています。24歳になりましたが、「生きる」とは何かと考え続けています。今、思うことを伝えます。

 

僕が生きることの意味を深く考えるようになったのは、高校時代でした。病院と隣接している養護学校に通っていました。

 

学校の先輩は、僕と同じ病気を抱えていました。「人工呼吸器を使用して、閉された病棟にいるのに、どうして笑顔に生活しているのか」疑問に思いました。

 

毎年、元気そうだった先輩が亡くなることがありました。僕は悲しいという気持ちより、怖いという気持ちが強かった記憶があります。「なんて筋ジストロフィー症は恐ろしい病気だ」と思いました。「僕は絶対にあんなふうになりたくない」と思いました。

 

あの頃は、自分の事だけを考えるだけで精一杯でした。高校の時に弁論大会で「病気を受け入れながら、生きていく」と演台で伝えました。本心では、命を失いたくないから、治療する決意表明をしただけでした。僕なりに模索した結果でした。

 

けれど、生きることは戦場に闘いにいくものだと身を構えていたのです。「将来は、苦しいこと、辛いことばかりだから、頑張らなくてはいけない」と思ってしまったのです。

 

僕は高校を卒業した後、夢や希望を描けなくなりました。この病気は、進行していきます。手足が動かせなくなります。呼吸ができなくなくなります。

 

どう考えても、普通の人のように生きることは不可能でした。僕は羨ましさと、同時に「死を待つしかない」と思いました。

 

そう思ったら、自分の生きている価値を完全に見失ってしまいました。僕には、人生を終わらせる勇気はありませんでした。「ただ無意味に生かされている」と思いました。僕は現実逃避するために、布団に逃げ込むようになりました。

 

ふっと僕は、亡くなってしまった先輩を思い出しました。あの時、「どうしてあんなに笑顔に溢れて、生きていたのか」と思いました。

 

僕のように、病気の恐怖を抱えていたと思います。けれど、「テレビを観ること」「友達と話すこと」「自宅に外泊すること」「好きな有名人を応援すること」「ボランティアさんと関わること」1つ1つを楽しんでいました。だから、あんなにイキイキしているのだと思いました。

 

僕は、病気を抱えて生きていくしかありません。完治することはありません。僕に命と病気を与えてくれたのは、「神なのか」「仏様なのか」「自然なのか」分かりません。けれど、何かしらの意味があると思いました。

 

その時から、死にたいと思わなくなりました。将来の事に捉われずに、命のある限り、生き続けたいと思いました。だからこそ、今を大事に過ごしたいと思いました。

 

僕にしかできないことがあります。それは、文章にして伝えることです。それは、僕が胸を張れることでした。病院に入院しながら、日頃、感じることを詩と作文にするようになりました。

 

よく考えてみると、医者が診察してくれます。看護師が、体調を管理してくれます。理学療法士が、体の痛みを和らげてくれます。作業療法士が、動作をフォローしてくれるスイッチを作ってくれます。栄養士がバランスのいい献立を考えてくれます。調理師が食事を作ってくれます。

 

僕は何気ない事を文章にしたら、恵まれていることに気付きました。その文章を読んでくれた人が、「胸に届いた」「元気を貰った」「心に残る」と感想を言ってくれます。自分が存在していることは、少なかれ価値があると思いました。僕はその瞬間、生きていてよかったと思います。

 

最近、若者の自殺が増えています。人間だから、「夢が持ってない」「仕事に遣り甲斐が沸かない」「自分に自信がない」「恋愛がうまくいかないこと」に苦しみます。誰しもが悩みながら、生きています。

 

もし、あたなが生きる価値を見失ったら、何気ない事に目を向けて下さい。

 「自分はどうしたいのか」問いかけてみて下さい。必ず、あなたが存在することに価値はあると思います。その答えに気付いた時こそ、道を開いていくことができると思います。

 

 前に進もうとすれば、人間は変わっていける生き物です。それが希望なのです。僕にとって「生きる」とは、「闘いではなく、楽しむもの」だと思います。

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