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「私は幸せだから」

 

私は「デシェンヌ型筋ジストロフィー症」という難病を抱えています。手足を動かすこともできません。着替えをすることができません。自由に外にも出られません。夜空も眺められません。好きな人とデートもできません。それだけなら、考え方次第で変わることができるかもしれません。

 

しかし、この難病は呼吸する力や心臓を動かす力が弱くなっていきます。根本的な治療法はありません。平均寿命も延びていますが、短命であることは間違いありません。生と死の狭間で懸命に生きています。私は生活も病状も、歳を増すごとに理想と現実からかけ離れていきます。結婚したいけど、ベッド上でモニターに繋がれているような状態です。独りで涙を流すこともあります。けれど、私は今も笑い続けています。何故だか分かりますか。前向きに生きるためです。

 

この難病は良くなることはありません。悪くなるばかりです。誰も変わってはくれません。神様に祈っても治りません。涙を流して途方に暮れても治りません。どうすることもできない気持ちに苛まれます。こんな辛いなら、苦しいなら、階段から飛び降りればいいのです。けれど私にはそれはできませんでした。もちろん死が怖いからです。

 

厳密に言うとすれば、生きることは苦しくて過酷なことだけど、どこかで幸せを感じている瞬間があります。だから私は生きることを選んでいます。治すことができない難病を受け入れるには、前向きに笑うこと、できることややれることを一生懸命に取り組むことです。そうすると私のことを心から理解してくれる人の存在を感じます。そのたびに、この世界は穏やかで愛しいものだと痛感し頑張ろうと思います。

 

例えば、「今日は天気がいいなあ。」「今日は青空に包まれていいなあ。」「看護師さんが優しくていいなあ。」「友達と話せていいなあ。」「将棋ができていいなあ。」「本が読めていいなあ。」「インターネットが繋がっていていいなあ。」「食事ができていいなあ。」「お風呂に入れていいなあ。」という日常生活に山ほど落ちています。苦しいこと、辛いことがあっても、僅かな選択肢の中から私なりの生き様を模索しています。

 

けれど、同世代を眺めてみると「結婚した。」「恋人とお付き合いしている。」「出産した。」「出世した。」「旅行に行った。」SNSには、数えきれない投稿がありました。私の積み重ねた幸せは、小さくてくだらないように思うことがありました。そのたびに、涙を流します。「羨ましい。羨ましい。けど私も幸せだよ。」と独りで慰めてあげます。

 

この悔しさと悲しみは大きな力になりました。私なりの幸せを世界中の人に伝えることでした。これは、私の唯一の生きる意味です。何度も羨ましさで心が折れそうになりながら、挫折しながら、人に話したり、ホームページに書いたり、SNSに投稿したり、本を読んだり、詩を書いたり、活動をしてきました。

 

そのたびに、「石井さんは大人だ。」「石井さんは落ち着いている。」「石井さんは優しい。」「石井さんはつよい。」と反響があります。私はいつも通りのことをありのままに伝えているだけです。特別なことはしていません。私が言えることは、難病があろうがなかろうが、幸せになることは誰でもできます。与えられたものをどう生かすかだと思います。夢だってやる気になればなんでも叶うし楽しいことだってあります。私は一度きり人生だから、悔やまないように全力で生きようと思いました。たぶん私には生きていることの幸せを伝える役目が与えられていると確信しています。

 

私の言葉や文章は人が涙を流して聴いて読んでくれます。それはどうしてか最近、分かりました。たぶん私が幸せだからだと思います。その姿に感銘を受けるのでしょう。みなさんにはこれだけは分かって欲しいです。私の体はギリギリの状態で生きています。色々な苦しみや葛藤を乗り越えて前向きに笑っています。とても大変なことを抱えて、今日という日を懸命に生きています。それだけは心にとめて置いて下さい。私は更なる幸せを探しながら限られた時間の中で味わいたいと思います。

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